偽板

江戸時代の出版事情

江戸時代は、識字率の上昇、印刷技術の発達、そして活発な商業活動といった要因が重なり、出版文化が大きく花開いた時代でした。
武家や知識人だけでなく、一般庶民も読書を楽しむようになり、多種多様なジャンルの本が出版されました。
例えば、儒教の教えを説いた読本や庶民の娯楽であった草双紙など、現代の私たちが書店で見かけるようなジャンルの本は、ほとんど存在していたと言っても過言ではありません。

印刷技術の中心は木版による製版印刷でした。
紙に文字や絵を書き、それを板木に貼り付けて彫り、墨を塗って紙に刷り写すという方法です。
一枚の板木を作るには、作者、筆耕、彫師、摺師など多くの人が関わっていました 。板木は高価なものであり、その所有権は「板元」と呼ばれる本屋にありました 。

出版の中心地は、当初は京都や大阪といった上方でしたが、享保年間以降は江戸に移っていきました 。江戸では、書物問屋仲間や地本問屋仲間といった組織が作られ、出版活動が統制されていました 。また、幕府は出版統制を行い、社会秩序を乱す可能性のある書物の出版を制限していました。

こうした出版業界の状況を把握するため、書物問屋仲間では「板木総目録株帳」と呼ばれる記録を作成していました。
これは、どの本屋がどの板木を所有しているかを記録したもので、いわば出版物の権利関係を明確にするための台帳でした。

江戸時代の「偽板」とは

「偽板」とは、江戸時代に他の本屋の出版物を無断で複製・出版したものです。
現代の海賊版と類似していますが、当時の著作権の概念は現代とは異なっており、単純に同一視することはできません。

偽板は、板木の所有権を侵害する行為であり、書物問屋仲間によって厳しく取り締まられました。
正規の出版物と偽板の区別は必ずしも容易ではありませんでしたが、紙質や印刷の質、誤字脱字の有無、版木の状態、奥付などに違いが見られる場合がありました。

「偽板」が作られた背景

偽板が作られた背景には、いくつかの要因が考えられます。

  • 利益の追求: 人気のある本を複製すれば、少ない労力で大きな利益を得ることができました。
  • 出版統制の抜け穴: 幕府の出版統制は厳しかったものの、それをすり抜けて偽板を流通させることが可能でした。
  • 需要と供給のバランス: 読者の需要に対して、正規の出版物が不足していた場合、偽板が流通する余地がありました。

具体的な「偽板」の事例

  • 『御文章』の偽版
    宝永2年(1705年)に、本願寺の許可なく出版された御文章の偽版が出回りました。
    本願寺は、大坂奉行所に訴え出て、偽版の取り締まりを依頼しました。この事例は、偽版が宗教界にも影響を与えていたことを示しています。

  • 中国の法帖の偽版
    清代に中国で出版された法帖の偽版が、日本にも輸入されていました。
    銭泳の『履園叢話』には、偽造の手口が詳しく記されており、当時の偽造技術の高さがうかがえます。

  • 福沢諭吉の著作の版木
    慶應義塾図書館に所蔵されていた福沢諭吉の著作の版木は、実は天井板として再利用された偽版であった可能性があります。

「偽板」と正規の出版物との違い

偽板と正規の出版物を見分けるのは、必ずしも容易ではありませんでした。しかし、いくつかの点で違いがありました。

  • 紙質や印刷の質
    偽板は、正規の出版物に比べて、紙質や印刷の質が劣る場合がありました。
  • 誤字脱字
    偽板は、正規の出版物を複製する際に、誤字脱字が生じる場合がありました。
  • 版木の状態
    偽板を作る際に使われた版木は、正規の版木に比べて、摩耗や傷みが激しい場合がありました。
  • 奥付
    奥付に記載されている発行者や発行年が、正規の出版物と異なる場合がありました。

偽版の流通経路

偽板は、正規の出版物と同じように、本屋で販売されることもありましたが、それ以外にも様々な流通経路がありました。

  • 売子
    売子は、街角で本を販売する行商人でした 。彼らは、正規の出版物だけでなく、偽版も扱っていました。

  • 貸本屋
    貸本屋は、本を貸し出す店でした 。貸本屋の中には、偽版を貸し出している店もありました。

偽版の社会的・文化的影響

偽版の存在は、江戸時代の社会に様々な影響を与えました。

  • 識字率の向上
    偽版は、正規の出版物よりも安価であったため、より多くの人が本を読むことができるようになりました。
  • 出版業界の活性化
    偽版の存在は、正規の出版業界にとっても刺激となり、より質の高い出版物を作るための努力が促されました。
  • 著作権意識の芽生え
    偽版の取り締まりを通して、著作権に対する意識が高まりました。

偽版に対する規制

偽版は、板木の所有権を侵害する行為として、書物問屋仲間によって厳しく取り締まられました 。
特に、「重版」と呼ばれる、内容をそのままに無断で複製する行為は、最も重い罪とされていました。

結論

偽板は、江戸時代の出版業界における影の部分と言えるでしょう。
しかし、その存在は、当時の出版文化の活況を反映しているとも言えます。
偽板を通して、私たちは、著作権に対する意識や出版物の流通経路など、江戸時代の出版事情をより深く理解することができます。

偽版は、単なる海賊版ではなく、当時の社会状況や文化を反映した存在でした。
その存在は、出版業界の活性化や識字率の向上に貢献した一方で、著作権侵害という問題も引き起こしました。
偽板は、江戸時代の出版文化を理解する上で重要な鍵となるでしょう。

偽板に関する参考文献や資料

  • 速見行道『偽書叢』3巻(嘉永6年)
  • 伊勢貞丈撰『偽撰の書目』
  • 『日本古典偽書叢刊』全三巻(現代思潮新社)
  • ジャパン・ミックス 編『歴史を変えた偽書 大事件に影響を与えた裏文書たち』ジャパン・ミックス

用語解説

用語 説明
偽板 江戸時代、他の本屋の出版物をひそかに出版すること。また、その本。重版。
重版 じゅうはん。江戸時代、他の本屋の出版物をひそかに出版すること。また、その本。偽版。
翻刻 既刊の書物の内容を一部改め、刷り増すこと。また、その本。
私家版 寺院や素人が独自に開板して、その板木を所有しているもの。
板木 印刷用の木版。
板元 板木を持っている本屋のこと。
添章 いわば出版許可証。
草双紙 江戸中期から明治の初めにつくられた挿絵主体の仮名書きの読み物。
読本 儒教理念に基づく読み物。
地本問屋 江戸の大衆本の問屋。
御文章 本願寺歴代宗主の消息などを集成したもの。
法帖 書の模範として、著名な書家の書蹟を複製したもの。

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